monomadoのブログ

本を買う話とか、読んだ本の話とか。あと時々、旅行の話を。

奇面館の殺人 綾辻行人 講談社

奇面館の殺人 (講談社ノベルス)

梅田の丸善ジュンクで散々本を買った挙句に近道のつもりで通り抜けた阪急の紀伊国屋の平積みを発見して即購入した。あまりミステリをたくさん読む方ではないけれど、館シリーズはおもしろくて読んでいる。

前作の暗黒館はおもしろかったにはおもしろかったけど、僕が気に入ってるのは(水車館で)、「やられた!」と思わず手前のページに逆戻りしてまで、まんまとハメられていた、という体験から読み続けているので、今回の本格ミステリ路線の作品と帯に書いてあるし、何よりタイトルから、いかにもトリッキーな状況になることが推測されて、とてもわくわくしながら読んだ。

今回は冒頭より、探偵役の鹿谷門実が登場。けっこう、明智小五郎的に登場しては、いままで遅々として事件を食い止めることもできず、少しずつ謎が解けるか解けないかのところで、颯爽と現れたと思うと、次々に推理を的中させていく爽快な登場とは違い、今回は全編にわたって推理を働かせる。ちょうど、我々読者が鹿谷門実の推理に付き添いながら、行動を共にしながら、物語を読み進めるように展開していく。

だいたい、物語の中盤戦にかけて、たっぷりと仕掛けられた犯罪の可能性が、ちょうど将棋の序盤の布陣で、徹底的に仕込みに仕込み、力をタメにタメて、いざ事件。
参加者全員が、それぞれ感情を表す仮面をかぶっているという設定からして、事件が始まる前から、犯人の入れ替わりなど、さまざまな可能性がちらばっていく。

こうした設定を無理なく作り込んでいくのは、ミステリの職人的な手際に、これからどんな大仕掛けが始まるのかと楽しむ。

ひさしぶりに推理を楽しめた一作。作者がかねてより「館シリーズは十作」作ると公言しているが、これが九作目にあたるもの。シリーズものでありながら、毎回異なった趣向で楽しませてくれるが、シリーズものならではというところでは、最後の1作がとても楽しみになってくる次第。といっても、まだまだ先の話になるのだろうけど、ファンとしてもこのシリーズの根底にある館の建築家、中村青司に迫っていって欲しいとは思うところ。

大阪マラソンを見た。

ジョギングをしていた。
仕事が忙しくなってしまって、しばらくできないでいた。気づいたら寒くなってきていて再開がなかなかできない。
今日、久しぶりに走った。かなり体力が落ちている。前もそんなによくなかったけど、もっと悪くなった。
この運動不足はちょっと危機感を感じていいレベルになっていると思ってきた。

早朝に走りたかったけど、起きれず。
10時半くらいから大阪城に走り行く。あまり無理しないよう、走ったり歩いたり。
大阪城ホールあたりにまで走ったところで妙に人が多いし、なんかゼッケンとかつけてたりする。そういえば、来る途中に交通規制の看板をもったおじさんがちらほらしていた。

よく見ると、今日は大阪マラソン。僕みたいな初心者ではない人たちがウォームアップしている。
そのウォームアップですら、着いていくことのできない私。

帰ってきてテレビをつけると中継をやっている。鶴橋から森ノ宮を抜けて、大阪城の脇を走ってきて。家の近所を通るぞ!ということで、慌てて外にでていって沿道にて選手が来るのを待つ。


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めっちゃ早い。沿道で応援したり、選手が走り抜ける合間に、とたとたと道を渡って行く人。
いっしょになって走ろうとする人、テレビに映ったと携帯電話で確認する人。
街中を走り抜けるマラソンだけは、他のスポーツとは違う楽しさがある。街全体が競技場になる珍しいスポーツなんだと思った。

その走る姿をみて、同じ人間としてなんとかしたいと、ふつふつと思う。
これから少しずつ走ることを続けていきたいな、と思う。

サンタクロースの秘密 (serica books)

サンタクロースの秘密 レヴィ=ストロース 中沢新一 せりか書房

レヴィ・ストロースの「火あぶりにされたサンタクロース」と中沢新一の「幸福の贈与」を所収。

レヴィ・ストロースの論文は、1951年フランスのディジョンで起きたサンタクロースが大聖堂の前で火あぶりにされるという事件をとりあげている。
この論文によれば、そもそもクリスマスにサンタクロースが子供にプレゼントをあげるという習慣そのものが、「異教的」な習慣であるそうだ。現在、クリスマスの行事といえば、誰もがキリスト教のお祭りであると知ってはいるものの、キリストとサンタクロースの関係について知るものは少ない。なぜなら、サンタクロースとキリストの間にはそもそも関係がないからなのだ。
なぜ、サンタクロースは火あぶりにされなければならないのか?それは、本来のキリストへの信仰を濁す存在であるからで、サンタクロースの来歴がそもそも異教から来るものであるからだ。
それは、世界大戦の中でアメリカ兵が持ち込んだ習慣であると、レヴィ・ストロースはとらえていた。

異教的であることと同時に、それは贈与の祭りであり、ある贈与論としての一形態として極めて興味深いのが、現代にあるこのクリスマスという行事なのである。
もともと、異教を由来とする贈与のクリスマスは、死の世界へとつながる側面をもっている。レヴィ・ストロースはハロウィンという習慣とつなぎ合わせながら、死者と生者の交感といしてのクリスマスを位置づけてみせる。
ハロウィンは死者の蘇りであり、クリスマスは死者への返礼(贈与)である、と。

死者の役割は、子供が担う。それは、まだ生者の秩序以前ゆえに死に近い存在であるゆえ。
私は、ハロウィンの来歴そのものに詳しくないが、死者の蘇りとしてのハロウィンというのがとても合点のいく説明であると理解した。(なぜ、おばけのかっこうをした子供が贈与することを強要するのか?)
クリスマスにおいても同じく、大人(生者)から子供(死者)への気前のいい贈り物が送りあたえられる。そして、この交感において、一年の豊穣、生存への死者への返礼と感謝を示していると説明される。

こうした贈与社会への反抗としての、サンタクロースを火あぶりにするというカトリックの聖職者の行いは、まさに、邪教的な方法、すなわち火あぶりによる、生贄の儀式を模した形で、とても皮肉な形で、旧慣習から、アメリカ主義的な資本主義社会への反抗という形で示されたのだと締めくくられる。

ショートカットの女たち パトリス ルコント 春風社

ショートカットの女たち

パトリス・ルコントの最初の小説。お話は、トマという男がショートカットの女の子を花嫁として見つけること。
ルコントの作品の中では、妙なこだわりをもった主人公がでてくる話が多いと思う。しかも、そのこだわりかたがあまりにも一途で、その賭け方が半端ないのも共通している点であると思う。『髪結いの亭主』では主人公は、たしか髪結いと結婚することを決意していたし、『歓楽通り』でも、確か娼館で娼婦の息子だった男が、娼館に来た女を人目みた瞬間に、すべてを捧げようと決める。
そして、どの主人公も勝負どころでは絶対にはずさない度胸があるところが、見ていてこそばゆい感じで面白い。やってくれるね!と声援を送りたくなる感じで。

まず、この愚直なまでに、目的にこだわる。『髪結いの亭主』ではここぞというチャンスをものにしていたように記憶するが、本作では、実際、ベストなショートカットの女の子を追い求めている点において、主人公がある程度どこにでもいるような普通の人に近い気がして、親しんで読める。でも、母親や、世話焼きな女の人に好かれたりするところをみると、かなりかわいらしい見た目と性格をもっていると推測されるし、受け答えもいつも気がきいていて、どこにでもいそうで、なかなかいない「いいやつ」なのだということがわかる。

なぜ、この本をとったのか。それはルコントの小説だからではなく、ショートカットの女の子と結婚したい!という意見に共感したから。確かにその通りだ。これは好みの問題ではなく、絶対そうなんだと思える。

こういう愚直なこだわりが美しいし、いいことだと教えてくれる、とてもいい本。

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朝ごはんは作っていただいた。とてもおいしい。
この日記を書くのに調べていたらサイトが見つけた。
http://www3.ocn.ne.jp/~shig/misakiya/


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日御碕の灯台に登る。
螺旋型の階段を登る式。一人分くらいしか幅がないので、行き違いが大変。降りる人が優先。

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灯台の周りは、お土産屋と、いか焼き、さざえ焼きを出す店が並ぶ。とても楽しい雰囲気。なぜか貝殻が欲しくなる。

ぜひお参りしなさいと、宿のおばあさんに言われて、隠ヶ丘と日御碕神社をお参りする。民宿だと、主人が信心深かったりすると、こういうお勧めをしてもらえて、「ここまで来て、お参りすれば、必ずいいことありますよ」と言ってもらうと、すでにいいことがあったような気分になる。ぜひともと思ってお参りに行く。

本当はグラスボートに乗りたかったのだけど、出航しているとか、いないとかであきらめる。
ぐるりとまわって岬を回って、宿のおばあさんにイカ焼きを食べさしてもらう。

バスで出雲大社に向かう。一時間に一本くらいにバスなので、乗り遅れてはいけないと時間を計算しながら、ご飯を食べる。ゆっくり食べてもいいようなものだけど、かなりうまかった。

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バスに乗り、稲佐の浜で降りる。少し歩くが、途中に出雲のお国のお墓もあることだし、なにより、折角なので浜辺とか見に行きたい。

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土地が足りないからと、神が綱引いて島を引っ張ってきたそうな。
神話のスケールの大きさはいい。超人的というか、神だからね。島くらい力自慢だったらなおさらできることだろうと思えてくる。

歩いていると、八重桜が咲く家の前で、お茶会のようなものをしている。「どうぞお茶を飲んでいってください」と言われて、お言葉に甘える。

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どこからきたのですか?
大阪ですか?
黄砂?今日なんか、まだましなほうですよ。

なんて話をして、お茶いただいて、昆布を揚げたものや、手作りのお米のあられのようなものをいただいて、ゆっくりする。

もう少しあるくと、やはりGWということもあってか、出雲大社への駐車場に並ぶ車の列が見え始める。横目に眺めて、本当は正面から入りたかったけど、参堂の途中から。

伊勢神宮のような印象とはことなり、大きな社のある神社という趣。
生憎、本田は改築中であったが、大きなしめ縄のついた拝殿にてお参り。
(こういうところで写真をとるのが、なんとなく嫌だったので、とらなかったので画像はない)

お参りのあとは、出雲大社から、一畑電車宍道湖温泉へと向かう。

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映画にもなったそうな、ローカル電車は、とてもいい雰囲気だけど、あっさり寝てしまい、車窓を楽しむわけでもなく、くったりと。

宍道湖温泉駅から、今日のお宿に向かう。
ヤングイン松江。これまた、ギリギリ予約ができたお宿。

荷物を置いて、おいしいものを求めて、松江をぶらぶらと。
漁師料理と書いてあるので、きっとお魚がうまいと踏んで、お店に入る。
「多摩漁師料理の店」。
実際、うまい。魚をたくさん食べる。贅沢して、のどぐろを食べる。

店を出て、疲れたのでとっとと帰る。
ヤングインの一階はバーになっていて、常連さんが楽しそうに飲んでいるようだった。シャワー室がそのバーの裏手あたりにある形で、シャワー浴びて、お客さんに顔合わせるのがなんとも言えない気分になりつつ、お客さんは慣れたような感じで、飲み続けていた。

出雲へ向かう

久しく旅行にでかけていない。いいかげんどこかに出かけないとおかしくなりそうだ。いつでもそうだけど、いつも安心して長期休暇の予定なんか立てることができない不安定感。直前まで予約も準備もないままに、突然前日なんかにいそいそと準備を始めだす。
3日〜8日まで、休みのすべてを使って旅行にでかける。旅行前日に準備をはじめたものだから、このGWのことだから、全然宿がとれないで、なんとか電話かけまくって宿を確保する。
行き先は、ほとんどでかけたことのない、島根と鳥取。出雲まで向かってから、東へと大阪へ戻ってくるようなルート。まずは3日に高速バスで出雲まで向かう。本当であれば、2日の仕事終わりの夜中に高速バスに乗ってしまいたいところだったけれど、あいにくの満席のため、3日の朝、七時に大阪梅田の阪急高速バス乗り場から、バスで出雲に向かう。7時発で到着予定は13時予定。

どうせ道は混んでいるに違いないと思っていたけど、事故渋滞も相俟って、到着は17時。飛行機ならアメリカに着いているじゃないかという時間がかかったが、飛行機との違いは1時間少し置きにパーキングエリアで休憩できることくらいだ。

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蒜山高原。

時間だけはたくさんあったので、本はたくさん読めた。だから全然快適。2冊も読めた。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

旅行で読むにはふさわしいのだろうかはわからん。

ポーノグラフィー始末記 (植草甚一スクラップ・ブック)

植草甚一のポルノ小説についてのエッセイを集めたもの。
フランスなんかでポルノグラフィーというのはまずもって私家版なんだな。だから大変手に入らないし、それだけでどきどきということだったに違いない。奢灞都館の本なんかを古本市で見つけた時の喜びはそれに少し近いはずと思っている・・・

予定では、昼過ぎについて出雲大社にお参りにいこうと思っていたけど、明日に諦めて、日御碕になんとか取れた民宿に直接向かうことにする。
この連休の5月3日はひどく予約がとれない日で、Web検索ではラチがあかないので、地図みて民宿と書いてあるところに方端から電話していって、ようやく予約が取れたお宿。電話口に出たのは、おばあさんの声で、晩御飯とかは準備できないがそれでもよければ、という条件でのこと。

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駅に着いたときは、暗くなり始めていた。

駅前から、日御碕行きのバスにのる。出雲大社を横目に見ながら、バスは左折して浜へ、海沿いを山を登っていく。

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道が極まったところで、バスを降りて少し歩く。
灯台が見えた。19時くらいだっただろうか。貝殻で作ったみやげ物だのが並んだ小道の中に宿を見つけると、おばあさんが前で待っていてくれた。

聞けば、先月に宿を閉めてしまっていたのだけど、折角電話をくれたのだからと、泊めてくれたのだということで。年齢の問題と、テレビをデジタルに仕替えることができないし、後継ぎもいないし、ということで。部屋に案内されると、こちらは布団で寝られれば大変ありがたいといいながら、自分で布団を敷きますよってに、とできるだけ、ご迷惑をかけないようにと気遣いながら、お部屋を借りる。

部屋の窓からは灯台が見える。夜で暗かったが、灯台のあたりまで歩いてみた。

ようやく遠くに来ることができたと思い、少しうれしくなる。

天満へ古本屋めぐり

古本マニア雑学ノート―人生に大切なことはすべて古本屋で学んだ

古本マニア雑学ノート〈2冊目〉―愛と古書と青春の日々

唐沢俊一による、古本にまつわるエッセイ、お話が書かれた本。
天満の古本屋を見て回りながら、天牛書店を見つけて買う。そしてその日に読んでしまう。

古本マニアについての本が好きだ。だから荒俣さんの『ブックライフ 自由自在』とか、植草甚一さんの話とかもとても好きだ。

ブックライフ自由自在 荒俣宏コレクション2 本の愛し方 人生の癒し方 (荒俣宏コレクション2) (集英社文庫)

ぼくの読書法 (植草甚一スクラップ・ブック)


唐沢さんの話は、いかに古書マニアたちの世界が、ドロドロとした世界であるのかが、とても具体的に書かれている(とある一日の話とか、即売会で起こったとある本の奪い合いの話だとか)。

岡崎 武志さんの『極楽古本ガイド』にも、同様に書かれていたが、やはり古本好きの人たちに、たくさんの蔵書を抱えているからといって、「どれくらい読んでいるのですか?」という質問は愚問である、と書かれているのに納得しはじめる。

唐沢さんの本に、こうあった。

ところで、そんなにたくさん買って、いつ読むのだ、とよく聞かれる。こういう愚問を発するのは古書マニアではない人間である。切手収集マニアに、そんなに切手を買って、いつ手紙を出すのだと訊くようなものではないか。古書は集めるためのものである。読むものではない!
(『古本マニア雑学ノート』p49)

古書マニアとしては、集める本を読んでいるうちは青二才なのだそうだ。

また、『極楽古本ガイド』には、蔵書の数、読んだ数、月に読む量を訊かれたら、

面倒なときは「ざっと十万冊。もちろん全部読んだ。月に百冊は読む」と答えておく。白髪三千丈の類である。読書を数や量に換算するのは、読書の楽しみからもっとも遠ざけるべき悪癖である。(『極楽古本ガイド』p245)

ともあり、どれくらい読んだかとは訊かないで欲しいと書かれている。

古本極楽ガイド (ちくま文庫)

いずれもとても共感のできるお話だと思う。

『極楽古本ガイド』は本を読むことがねっから好きな人の話。より古本屋さん側に近いところで書かれた古本の話。

本を買いあさるぞ!っという気分のきっかけは、立花隆『知のソフトウェア』。一ジャンルをそこそこに極めるには4週間でいける。そして、まずは本を数万円分くらい買い込んで来い!という話がとても気合が入る。

「知」のソフトウェア (講談社現代新書 (722))

本は常に安い買い物 と書かれていたのを覚えており、今でも実際その通りだと感じ入りながら、本を買い込んでくる。
作ることが大変だということもあるけど、別のものに置き換えようとした場合のコストそのものが実際、安い買い物だとよく思う。

技術書とかなんか、読めばわかるようなことを何十万みたいな研修料金をとられたりするもんだし。

どうしたもんかなと、最近の仕事内容に不満を感じ始めつつ、本をどしどし読んでいこうと気分を変えようとしている。