再び仕事がいそがしく
近頃は、どちらかの日が仕事入っていたり、夜中に呼ばれたり、早朝に呼ばれたりが多く、久しぶりに土日が休み。
いいかげん、どっか遠くに行きたいと思っているけど、いけない。
近所でお風呂屋さんにでも行こうと思って調べると、玉造の玉造温泉の他に、大阪城温泉があるそうな。
なんか事務所の近くにある感じなのだけど、気になったので行ってみた。
住宅街の道沿い。マンションかと思う建物に「スチームサウナ」「露天風呂」「ジェットバス」「トロン風呂」などど光る看板がかかっている。入り口には↑の写真のネオンの文字。
とてもレトロな雰囲気を感じながら二階の入り口へ向かう。
券を買ってはいると、なんかしらんがラッキーナンバーということで、お菓子をもらう。受付フロアの奥には軽食、うどんなんかが食べれそうなカウンターの上に、赤提灯でそばの文字。左手には、懐かしい平台のインベーダーのゲーム機の上でおじさんがスポーツ新聞を開いて、ビールを飲んでいる。さらに奥には座敷があり、テレビがついていた。
受付の2階から風呂のある上の階へエレベータをあがって風呂に入る。
なかなか広く、そんなに混んでもいない。それでいてお風呂の種類がとても多い。トロン風呂が気になってたけど、これがまたいい。
お風呂あがりに座敷でくつろぎ、帰る。
壇一雄 『放蕩の自由』
BRUTASの先月号を立ち読みしていた。「男の作法」ということで、引用があった。要約して抜き出すと、ドイツで機嫌よく飲んでいたら、娘が膝の上にのってきて景気よくシャンパンをあけましょうとキスしながら言ってきた。すでに懐も十分ではないところだけど「男だから」とどんどんシャンパンを抜いていく。別の娘も集まってきてヤァヤァやっている。何度もシャンパンをあけながら、旅先で使うお金をすべて使い尽くしていく。なぜ断らないのか?それは「男だから」である。そして、ある屋敷に行って、いざという時にお金が尽きてしまう。すると、娘たちはまさに蜘蛛の子散らすように立ち去っていってしまう。
この旅先の話が気に入って、買って読んだ。壇一雄というと、どちらかと言うと太宰治の友人ということで、太宰の小説に登場してくる人だ、というくらいに思っていたけど、この人はこの人でだいぶとやばい人であるとわかった。
この本には、壇一雄のヒッピー旅行の話が書いてあって、またヒッピーについての印象なんかも書いてある。今更ながら、気づかされたのだけど、ヒッピーと太宰治、坂口安吾への近さが、印象として語られているのを読むにつけて、そうなのか、日本にもビートニックは存在しておったのだ!ということに気づかされる。確かに、バロウズのジャンキーに書いてあるような日常は、もう少し自己告白的にも、自己反省的にも語られる、その下向きなところがあるにせよ、とても似たところがある。まず、その時代に横串を通して、その時代に別々に発生した、この「いくない」文化が発生したのかということを考えたくなる。
加えて、旅の手本、あるいはうらやましいというべきその旅のスタイルを学びたいと感じる。
以前、ヨーロッパを旅行することがあったけど、どうして怖気づいてなかなか中に入っていくことができなかったことを、この人は、旅のお金がなくなってから、どんどんやっていく。そもそも、行き先なんかないんだよ、という感覚で旅することを愉快とするのがいいことなのだと思う。
お金がなくなってから、できるだけ市場とか、人が集まりそうなところに行って、ドイツだろうが、スペインだろうが、人が集まっているような立ち飲みや、居酒屋風の店に「ノコノコ入っていくのがよい」そして、言葉が通じなければ、少し行儀が悪いが、隣の席のうまそうなものを指差し頼む。もってきてもらったら、その名前を聞くのを忘れないで、おかわりを頼む時は、さきほど聞き覚えた品の名前を他の客のように大声で頼む楽しみに興じるがよい。とある。なるほど、なるほどと。
知らなかったのは、ドイツなんかにも焼酎があったりすること。こういうお酒なんか、きっと上に書いたような立ち飲みやに入っていかないと飲めないものなんだろうなと思う。
旅行に作法なんかないわけだけど、小田実の『なんでも見てやろう』的な、ぶっこんでいく旅にあこがれを覚えながら、近所でもいいんだと、そうだ、旅に出かけよう、と思い始める。
珈琲時光をみる
前にBRUTASの映画監督論特集の記事で読んだ浅野忠信の記事より、気になっていた『珈琲時光』を観た。
山手線でゲリラ撮影をしていた、という前情報以外知らないで観たのだけれど、電車の話と古本屋の話。場所は神田で。いいじゃないか!と観る。
ある一風景を切り抜いたような作りで、そのままの風景に見えるシーンが続きとても気持ちよくみることができた。といっても、きっと細かい気配りもあったには違いないのだろうけど。
映画のエンドロールに蓮見重彦の名前が。いい映画だったと感興に浸るも、すぐに気になってしらべてしまう。
ご自身の談
http://www.mube.jp/pages/milkhall_7.html
あのシーンかと、再度チェック。
やはり、うつってなんかいないんだ。このゲスト出演にも関わらずカットする候監督は、かっこいいぜ。
若い小説家に宛てた手紙
パルガス・リョサの小説の味わい方を講じた本ということだろうか。
作家が書く、小説の面白さみたいな本はいくつか読んだけれど、この本は、小説家に宛てられているだけのことはあって、作家がどのように物語を作るにあたって工夫しているのか、ということをとても順序だてて、わかりやすく説明してくれている。
読者であるということだけであれば、小説に対して、作家が意識的にか、無意識的になのか、少なくとも本と読者の間にある一定の効果と影響の関係があると思う。作家としての努力は、仮に読者において作品は上演されるのだとしても、いかに読者にその効果を発揮するために、どのような形で物語を表現するのかという話になる。
なので、ここは作家でないにしても、この本を作家の隣で、そうやって作るのかなるほどとテクニックを盗むようなつもりで読むのがよい。
すると、わかってくるのが、何故作家はここで、物語を出来事の最後から語り始めるのか、出来事を思い出として「私」に語らせるのかといった、出来事を説明することができたその他多くの可能性から、作家があえて選んだその形式の意味について、とても意識的に、慎重的に読むことが大事なことであることがわかってくる。
ガブリエル・マルセルの『物語の作り方』を読んでいても、作家という仕事は、何もないところから作るにして、とても職人的な努力も必要なのだということを教えてくれる。
こういう本を読んだあとは、作家の工夫なんかにも考えも膨らませながら、読んだりするのが楽しい。