ハッカーと画家 コンピューター時代の創造者たち
ハックという言葉が、悪意をもって政府や企業のサーバに侵入する犯罪者のことを意味するわけではない
と説明する必要がないくらい、ハックという言葉は本来の意味で使われるようになって久しくなってきた。
本書はPaul Grahamというすごいハッカーの人のエッセイが集められた本で、アメリカということ、オタク精神、ベンチャーであること、企業の中に潜むこと、そしてベンチャーに乗り出すこと。また、Lispの話を筆頭にプログラムについてがかかれている。
ハッカーの精神がそのままに語られるというよりは、筆者自身の経験と思索によってまとめられた本書は、オタクがオタクのまま、より強く社会的な存在として、世界に打ってでる道筋とヒントが記されている。
ここにメモしておきたいのは、冒頭の1章を。この感覚はハッカー魂というものの中にあるアメリカらしさを象徴する一節なのであると思う。
(日本人が日本刀のように精緻なものを作ることに比して)
私たち米国人は違う。何かを作るとき、米国人はとにかく仕事を終えることを考える。とりあえず動くものができたら、そこからは2通りの道がある。そこで作るのをやめて、バイスグリップみたいに不格好だが何とか使えるものを使っていくか、あるいはそれを改善してゆく――でもたいてい、そういう改善とはごてごてした装飾を付けていくことだ。車を良くしようとして米国人が考えるのは、その時々の流行によって、尾ひれを付けてみたり、車体を長く伸ばしてみたり、窓を小さくしてみたりといったことにすぎない。(上掲書 p3)
この節で、アメリカ人が得意なのは、とにかくやってみる類の仕事であり、例えばそれが映画を作ることであり、ソフトウェア開発であるといわれていた。
上の引用においても、確かに考え方の方向性がアメリカは、付け足すというのが好きなんだなと気づく。
ソフトウェア開発を仕事にしながら、きっと日本の現場なんか、アメリカ人がみたらひどく驚くような現場なんだろう。今働いているところの開発・運用の現場で呪文のように聞く言葉は、「品質」そして「改善」だからだ。
いくら逆立ちしても、アメリカのベンチャー精神で作られたソフトを乗り越えることができないのは間違いないと思う。
こうしたベンチャー精神に従って、挑戦することをよしとするのがアメリカという土壌であると本書の冒頭にある以上、こうしたチャレンジを日本でいかにするのかということは、少し参考にできない。
どちらかというと、この本をもってアメリカに行くのが手っ取り早く挑戦し、成功するための方法だと言える。
だから、今の自分が、この本を読んでどうしようと考えられなかったのではないか。この話、うまく日本の土壌に翻案してこないといけないのだと思う。これを取組として考えない限りは、前には進めない。そして、このことを考えている人はいるんだろうか?と次の考えのための問として開いてくことにする。
追記
Lispという言語、やたらに括弧が多い謎の言語で、玄人っぽい、ハッカーぽいってんで、少し勉強してみようと思ってみた。