monomadoのブログ

本を買う話とか、読んだ本の話とか。あと時々、旅行の話を。

壇一雄 『放蕩の自由』

漂蕩の自由 (中公文庫)

BRUTASの先月号を立ち読みしていた。「男の作法」ということで、引用があった。要約して抜き出すと、ドイツで機嫌よく飲んでいたら、娘が膝の上にのってきて景気よくシャンパンをあけましょうとキスしながら言ってきた。すでに懐も十分ではないところだけど「男だから」とどんどんシャンパンを抜いていく。別の娘も集まってきてヤァヤァやっている。何度もシャンパンをあけながら、旅先で使うお金をすべて使い尽くしていく。なぜ断らないのか?それは「男だから」である。そして、ある屋敷に行って、いざという時にお金が尽きてしまう。すると、娘たちはまさに蜘蛛の子散らすように立ち去っていってしまう。

この旅先の話が気に入って、買って読んだ。壇一雄というと、どちらかと言うと太宰治の友人ということで、太宰の小説に登場してくる人だ、というくらいに思っていたけど、この人はこの人でだいぶとやばい人であるとわかった。

この本には、壇一雄のヒッピー旅行の話が書いてあって、またヒッピーについての印象なんかも書いてある。今更ながら、気づかされたのだけど、ヒッピーと太宰治坂口安吾への近さが、印象として語られているのを読むにつけて、そうなのか、日本にもビートニックは存在しておったのだ!ということに気づかされる。確かに、バロウズのジャンキーに書いてあるような日常は、もう少し自己告白的にも、自己反省的にも語られる、その下向きなところがあるにせよ、とても似たところがある。まず、その時代に横串を通して、その時代に別々に発生した、この「いくない」文化が発生したのかということを考えたくなる。

加えて、旅の手本、あるいはうらやましいというべきその旅のスタイルを学びたいと感じる。
以前、ヨーロッパを旅行することがあったけど、どうして怖気づいてなかなか中に入っていくことができなかったことを、この人は、旅のお金がなくなってから、どんどんやっていく。そもそも、行き先なんかないんだよ、という感覚で旅することを愉快とするのがいいことなのだと思う。

お金がなくなってから、できるだけ市場とか、人が集まりそうなところに行って、ドイツだろうが、スペインだろうが、人が集まっているような立ち飲みや、居酒屋風の店に「ノコノコ入っていくのがよい」そして、言葉が通じなければ、少し行儀が悪いが、隣の席のうまそうなものを指差し頼む。もってきてもらったら、その名前を聞くのを忘れないで、おかわりを頼む時は、さきほど聞き覚えた品の名前を他の客のように大声で頼む楽しみに興じるがよい。とある。なるほど、なるほどと。

知らなかったのは、ドイツなんかにも焼酎があったりすること。こういうお酒なんか、きっと上に書いたような立ち飲みやに入っていかないと飲めないものなんだろうなと思う。

旅行に作法なんかないわけだけど、小田実の『なんでも見てやろう』的な、ぶっこんでいく旅にあこがれを覚えながら、近所でもいいんだと、そうだ、旅に出かけよう、と思い始める。