monomadoのブログ

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水声通信 no.30(2009年5/6月号) 特集 ジョルジュ・バタイユ

水声通信 no.30(2009年5/6月号) 特集 ジョルジュ・バタイユ

水声通信 no.30(2009年5/6月号) 特集 ジョルジュ・バタイユ

バタイユの新しい研究を促す、そういった意識が読み取れるバタイユ特集。
本屋で見たときに、気になった論文は、
バタイユ研究の現状をめぐって」 神田浩一

最近の動向で新たな動きはあるのやら、ないのやらと気になって読んでみたが、ここでも、デリダフーコーの解釈がもはやクリシェとなっており、そこから抜け出しにくい状況になっていることが書かれていた。確かになかなかこれを越えるというのは難しいと思う。どれにせよ、自分の思想を別にもっている上で、バタイユと接していなければであるし、それに加えてトップクラスの思想家のワザなのだから大変だ。クリシェと言い切ってしまうところから次があるので、これはこれでいいことだと思う。
研究の動向として、新しい解釈という意味では、停滞している状況とのこと。

現在の状況をまとめると、新しい読みを可能にするパラダイムの提出がなされないまま今までのバタイユ解釈のクリシェが再生産されているという意味では研究の停滞を示していると言えるが、バタイユの思想を同時代のコンテクストの中で正当に評価しようとしたり、またバタイユ自身のテクストを文学的な美文に逃げ込んだりすることなく緻密に読み込もうとする点からは、飛躍を前にした準備の時期であるとも言える。新しい解釈はテクストを地道に読むことからしか生じないからである。

上掲書 p208

ひととおり読んで、気になった論文は、
「悦ばしきバタイユ」 谷口亜沙子

ここでは、バタイユといえば、焼き尽くす苛烈な太陽のイメージが独占的になるが、そうではなく、もうひとつの陽だまりの中にあるようなおだやかな太陽がバタイユの中にはあるというこを指摘している点、大変興味深い。
バタイユにおける体験とは、絶頂の中、何も見えず、錯乱の中で迎えられるようなものと思い込んでいたけれど、『内的体験』の中で論者が引用しているイタリア、ストレーザ滞在における体験の記述を目の当たりにすると、確かに、バタイユの体験は苛烈な太陽ばかりではないことがわかる。

バタイユの理論的な著作には、苛烈な太陽のイメージが先行していることはその通りであるが、僕としてはかなり手薄な状況であった、バタイユの小説から拾い上げられてきた、救済の陽の光としての太陽について、今一度、僕なりに考え直さないといけないと思ったところ。