monomadoのブログ

本を買う話とか、読んだ本の話とか。あと時々、旅行の話を。

ブルーノ・タウト (ちくま学芸文庫)

ブルーノ・タウト (ちくま学芸文庫)

ブルーノ・タウト (ちくま学芸文庫)

確か、天満の古本屋で購入した。(と思う)

ブルーノ・タウトさんが何者かは下記のwikiをみれば粗方わかるかと

http://d.hatena.ne.jp/monomado/draft?epoch=1246097802

本書は、妙な構成とアプローチで書かれていて、ジャンル的にはブルーノ・タウトの評伝といったところなのだろうか。
そもそもブルーノ・タウト自身について知識がなかったので、それを仕入れる為に読んだ。

いくつかの気になるトピックを書いておく。

桂離宮と「永遠なるもの(das bleibend)」

ブルーノ・タウトが日本で特に興味をもって受け止めたのが桂離宮であるといわれる。桂離宮が高い評価をうける建築であると聞くが、その高い評価には、ブルーノ・タウトの評価が大きいのではないかと思われる。特に外国人に見せるとしたら、その実績からも桂離宮をとなるのではないだろうか。本書では、ブルーノ・タウト桂離宮のどこに、それほどの感銘を受けたのかということを探求している。
そこには、簡素な様式であり、そしてすべてが計算されつくしているようにも見える、人工的に再現された自然の、完全性としていると思われる。そしてブルーノ・タウト桂離宮の中に読み取った「永遠なるもの」という概念は、ドイツ語でdas bleibendとい言葉で表され、より正確には、保持されるもの、別の意訳をすれば、変わらぬものといったところの概念で、それは余計なごちゃごちゃしたものをそぎ落とし、そこに無駄なものがない、純粋なものを桂離宮に感じ取っていたということが書かれていた。

ブルーノ・タウトとキッチュ

キッチュという言葉もブルーノ・タウトが、たとえば日本の日光東照宮を評して、キッチュと評したことから、この言葉が浸透したとかかれている。ブルーノ・タウトの翻訳では、キッチュは「いかもの」と翻訳されていたらしく、桂離宮と日光東照宮とを対比した時に、桂離宮の余計なものを省いた完全性に対して、ただひたすら、余計なものがごてごてと付け足され、媚びたようなもの、言い換えれば、人受けしそうで、キャッチーなとも、大衆受けしそうとも、いえるような習俗にべっとりとはりついたような姿をキッチュといっていたのだと思う。もちろんブルーノ・タウトの好みは桂離宮であろうが、一方でこのキッチュという言葉で表現された日本のあり方もまた、日本の古きよき、一部の姿ではないかと思う。
僕はキッチュなものは、やはり好きだけど。

ブルーノ・タウト VS 坂口安吾

ブルーノ・タウト桂離宮好みというところで、「日本文化私観」を著した。そしてこの本に切れたのが坂口安吾で、その安吾も「日本文化私観」を著してタウトと対峙している。『ブルーノ・タウト』(ちくま学芸文庫)からの孫引きとなるが引用すると、

僕は日本の古代文化に就て殆ど知識を持っていない。ブルノー・タウトが絶賛する桂離宮も見たことがなく、玉泉も大雅堂も知らないのである。況んや、泰蔵六だの竹源斎師など名前すら聞いたことがなく、第一、めったに旅行することがないので、祖国のあの町この村も、風俗も、山河も知らないのだ。タウトによれば日本における最も俗悪な都市だという新潟市に僕は生れ、彼の蔑み嫌うところの上野から銀座の街、ネオン・サインを僕は愛す。茶の湯の方式など全然知らない代わりには、猥りに酔い痴れることをのみ知り、孤独の家居にいて、床の間などというものに一顧を与えたこともない。

と書いてある。また、タウトの「釣合い」「調和」「秩序」といった美的欲求ではなく、「生活の必要」をいい日本の古きよき故郷が破壊され、電車が走り、ビルが建つことを、「生活の必要」から反論している。

京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。我々に大切なのは「生活の必要」だけで、古代文化が全滅しても、生活は亡びず、生活自体が亡びない限り、我々の独自性は健康なのである。

と書き、さらに、

即ち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。

と書く。

キッチュという言葉であえて表現された、まがまがしさ以上に、安吾が言う「生活の必要」というレベルまでいわれると、さすがに迫力がましてくる。一方でタウトが求めるのは、完全な自然をとらえた人工物であり、一方で、自然な人間のありかた、生そのままの姿を肯定する安吾が対峙している。
どっち?という話にすると、決められるわけもないので、タウトVS安吾の話から、安吾側に近い僕の意見

・安吾の話は、一方で、我々が外国に出向いていったときにも、安吾の立場から、外国を眺めることができるか?と問いかけることで、さらに深められるのではないかと思う。話は、他なるものに対する態度の問題かも知れない。

・まずは「生活の必要」を確保されることが必要。それは間違いないと思う。その後の話をする時には、タウト的な視点が必要になってくると思う。両者を同時に実現しようというのは虫のいい話で、ひねくれる。それこそキッチュな状態になることになるだろう。
(キッチュが本来の意味を曲解して、間違って、本来の効果ではないものを引き出していたりすることをいう意味において)



ついでにキッチュという概念についても整理してみる。

今回取り上げている本でもキッチュについて考察されており、「いかもの」という観点から考察されていた。

語源として、書かれたいたところを見ると、
キッチュはドイツ語で、古くからあった後ではなく、19世紀から使われ始めた言葉。
南ドイツミュンヘンで美術商が使い始めた言葉のがはじまりとされており、kitchenという「掻き集める」「塗りたくる」という言葉から来ているらしい。本物の美術品ではない「安直な駄物」「まがいもの」という意味で美術商らに使われた後とされている。

ここからは考察で、キッチュとは本来のもの、本物のもつ権威、象徴をパクッて流用してきているが、物そのものが安物であったり、名前にふさわしくなかったりする時に、キッチュが生れるのではないかと思う。
たとえば、パチンコ屋にある、「ベニス」「ラスベガス」とかいった有名な都市の冠をつけたネオンなどはキッチュだと思う。
喫茶店の名前も、スナックの名前もそんな具合だ。
近所にある「パレス温泉」という銭湯も同じだと思う。

これらのネオンサインがあつまった歓楽街はやはりキッチュとなる。

この話でいけば、パチもんといわれる、ナイキではなくナイス、チャンピオンでなくチャレンジャーみたいなサンダルもそうだ。
僕はこういうしょうもないものはスキだ。

これはこれで、とっても素敵な文化だと思うし、生活感があり、親しみやすさもあるものだと思う。
逆にキッチュという概念を洗練化して、表現してみせるアーティストの作品は、ある意味で、キッチュという混合物をピュアにしているという意味で間違っており、そのこと自体をわかってやっているなら、真のキッチュだろうが、間違っていることになる。
そもそもキッチュを概念化して、その概念を実現するというこの方法事態が、キッチュに反している。そして、キッチュであろうとするときには、それはただただ、並べられるだけで、表現されるようなものでなくてはならないのかもしれない。