monomadoのブログ

本を買う話とか、読んだ本の話とか。あと時々、旅行の話を。

大江戸異人往来

大江戸異人往来 (ちくま学芸文庫)

大江戸異人往来 (ちくま学芸文庫)

江戸時代の「異人」たちとの出会いについて書かれた本。他者としての異人に対して、当時の人たちはどのように反応し、どのように接したのかということが書いてある。

興味があるのは、異人と出会ったとき、海外旅行・留学(漱石とか鴎外の)の異国に身を投じるような異国の体験ではなく、異国の片鱗と出会う体験と、その体験を、人はどのように受容するのかということ。
とりわけ、一部を知り、残りの全体像を補完するために働かせられる想像も含めての、受容の姿に興味がある。

外国に実を投じる体験というのは、風呂に入るようなもので、頭から足の先まで外国に覆われ体験する。そのため、想像することは少なく、押し寄せる経験をいかに解釈し、受け止めるかということが中心になる。
逆に、外国の兆しだけが見えるという状況では、その一部からいかにして、全体像を思うのか、となる。

そこでは、あきらかに実際とは異なる想像が働きもするが、想像の強力なきっかけが与えられるだけに、面白い発想が生まれてくるものである。

この本とは関係ないが、『甲子夜話』という江戸の随想で紹介される話で、オランダで外国人がもちこんだオラウータンを見て、外人の一人に違いないと思い込み本気でオラウータンと会話しようと試みた人がいた という話。こういう人が僕はとてつもなく好きで、正しいかどうかは別にして、この本気っぷりがたまらないので、これくらい本気ならは「できる」前提で初めてしまっているので、こういうスタンスで取り組んでいたら、彼ならオラウータンと話ができるところまで行けるんではないかという期待がもてるところがあると思う。

話は逸れたが、こういった部分的な受容がもたらす、想像力の湧出というのが、この本を読んでいて面白いところではないかと思う。


例えば本書では、当時の書物で異人を分類整理している本の中で、異人を半魚人と同列に並べて整理していたりしておもしろい。また、情報がある場所では、比較的人の姿をしているが、離れた国の名前だけしか知られていないものについては、ほとんど想像でしかないような人間の姿を描かれていたのが面白い。

閉じられた世界の中で、とはいえ外部との接触もありきの中で、別の常識によって形成されている世界を見ることは、いまある自分自身の地盤をゆさぶるものとして、面白い。
フーコーの『言葉と物』の冒頭に挙げられるボルヘスの話を思い出すような体験がこの本ではできるように思う。

■この本から次に読みたいと思うこと

・甲子夜話をそもそも読んでみたい。

ちょっとジャンルは違うが
・『忘れられた日本人』
 を再読したい。

フーコー 『言葉と物』
 ちゅうと半端に読んで読んでないのでいいかげん読んでみたい。
 そういえば、フランス行ったとき、本屋で原典買ったんだっけか。
 (完全に忘れている よくない)