植草甚一の勉強
- 作者: 大谷能生
- 出版社/メーカー: 本の雑誌社
- 発売日: 2012/01/24
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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寺町の三月書房で買った。植草甚一のブックオールレビューという体裁の本で、植草甚一という人がどのような仕事を残したのかということをテーマにまとめられているのだと思う。おもしろかったエピソードは江戸川乱歩に海外の探偵小説を紹介していたという話。はたから見れば自由なイメージのある植草甚一という人も、受け入れられずに荒れていたときの話が淀川長治談で紹介されていて、なにもいつだって飄々としていたわけでもないんだなという話。この本に紹介された本から、さて次はどの本を読もうかなと考える。
植草甚一の収集誌
J・J氏こと植草甚一さんは、その自由で型破りであることにより、いろんな側面をもつ人だ。
ジャズの人、映画の人、ミステリーの人、そして散歩とコーヒーと、古本の人だ。
この本は、街歩きの中でJ・J氏がであった面白いもの、街を散歩することで面白いものに出会った話が集められている。
古本を買って、喫茶店に入って、今しがた買った本を開く瞬間が一番楽しい、というスタイルは古本屋を見て歩く人が自然とするであろう行動よ喜びなんだと思うけど、そういう楽しさについて、何度もよく語られている。
「おやおや、女みたいな趣味になってきたぞ」ではショーウィンドウを覗いたり、百貨店なんかを歩いていて気に入ったスカーフなんかを買う話。週末なんかに僕も繁華街にあてどもなくでかけたりするけど、こんな風に店屋を眺めて、店の品物、店の人と付き合っていけたらいいなと思うような話。
少し気後れしそうなお店でも、どうやったら気後れしないでくつろいでお店を眺めるのかというコツなんかも書いてある。(「ニューヨークにはいい店があるなあ」)
やっぱりあてどもなく出かけた日でも、なんかちょっとした小物や文具なんかを買って帰れるととても気分がいいものだ。
「わが道はすべて古本屋に通ず」は、古本屋歩きの理想的な姿が書いてある。こんな風に歩けるようになりたいものだとつくづく思う。この本に集まられたエッセイは僕のすきなフレーズも多い。
ぼくは、つぎのような場合に、古本屋を歩きたくなる癖がある。
一 寝不足の日の正午前後。
二 ひとりぼっちで酒を飲みだしたとき。五時半から六時にかけて
三 三、四日つづいた雨上がりの日。
四 本を買った夢を思い出した瞬間
五 そして古本を調子よく買っているとき、ますます歩きたくなる。十時ごろまで。
(p111)
どれも、古本が欲しいと思ってでかけるんではなく、古本屋に行くから欲しい物が見つかる式なのだ。
欲しい物をみつけに古本屋に行くので、欲しい物があってでかけるわけではない。こういうことをしているから、家が本でいっぱいになりはじめるんだ。
「喫茶店で本を読んでいるかい」も僕のお気に入りのエッセイだ。
書斎で本を読むというのもある。喫茶店で本を読むというのもある。
でも喫茶店で本を読むというのは何か特別なことな気がしている。特に気にいった喫茶店に、本を持ち込んでさあ、じっくり本を読むぞと座り込んだ時はなんともいえない楽しさがある。
そしてコーヒーについて。
ぼくはコーヒーの知識はないけれど、飲みだしたとき、もう一杯飲んでいいと思うのに、飲み終わったとき、それだけでよくなってしまうのが、おいしいコーヒーだ。
p202
すごくうまい言い方でうなってしまう。ずばっと言い切っているのが本当にすごい。
この人のエッセイには、その対象についての面白さもあるけど、力を抜いたスイングから、強烈な快音がなるような、すてきな言葉がでてくる。街をさまよう人たちに特有の言語感覚なんだろうか。
こういう言葉のセンスとしては、金子光晴もスラッガーだと思う。
こんな本を読んでいたら、何か売っているところを歩きまわりたくなるなあ。
勝手に生きろ チャールズ・ブコウスキー
何がいけないのか本を読む量が減ってきた。それでも通勤のわずかな時間の中でも読み続けて、今日、昼休みに読み終わった。仕事に行く途中で、仕事の休み時間で読むと、反対の意味で感じがでる。
この本はブコウスキーがを職を転々と転々としながらアメリカを放浪する話。酒に酔っぱって無茶したり、仕事に嫌気がさしては、不良な仕事をしてクビになることを繰り返す。どうしようもないような生活をつづった自伝的な小説。
これでブコウスキーは2冊目になるが、『死をポケットに入れて』がエッセイだったので小説ははじめてか。前回と文体は同じところがあるが、ぜんぜんかざらないで、おこった出来事がたんたんと書く。しかも、それは至極当たりのことを、そのまま書かれている。だから、ただのできごとを、横で感じるように読み取ることができる。
ハッカーと画家 コンピューター時代の創造者たち
ハックという言葉が、悪意をもって政府や企業のサーバに侵入する犯罪者のことを意味するわけではない
と説明する必要がないくらい、ハックという言葉は本来の意味で使われるようになって久しくなってきた。
本書はPaul Grahamというすごいハッカーの人のエッセイが集められた本で、アメリカということ、オタク精神、ベンチャーであること、企業の中に潜むこと、そしてベンチャーに乗り出すこと。また、Lispの話を筆頭にプログラムについてがかかれている。
ハッカーの精神がそのままに語られるというよりは、筆者自身の経験と思索によってまとめられた本書は、オタクがオタクのまま、より強く社会的な存在として、世界に打ってでる道筋とヒントが記されている。
ここにメモしておきたいのは、冒頭の1章を。この感覚はハッカー魂というものの中にあるアメリカらしさを象徴する一節なのであると思う。
(日本人が日本刀のように精緻なものを作ることに比して)
私たち米国人は違う。何かを作るとき、米国人はとにかく仕事を終えることを考える。とりあえず動くものができたら、そこからは2通りの道がある。そこで作るのをやめて、バイスグリップみたいに不格好だが何とか使えるものを使っていくか、あるいはそれを改善してゆく――でもたいてい、そういう改善とはごてごてした装飾を付けていくことだ。車を良くしようとして米国人が考えるのは、その時々の流行によって、尾ひれを付けてみたり、車体を長く伸ばしてみたり、窓を小さくしてみたりといったことにすぎない。(上掲書 p3)
この節で、アメリカ人が得意なのは、とにかくやってみる類の仕事であり、例えばそれが映画を作ることであり、ソフトウェア開発であるといわれていた。
上の引用においても、確かに考え方の方向性がアメリカは、付け足すというのが好きなんだなと気づく。
ソフトウェア開発を仕事にしながら、きっと日本の現場なんか、アメリカ人がみたらひどく驚くような現場なんだろう。今働いているところの開発・運用の現場で呪文のように聞く言葉は、「品質」そして「改善」だからだ。
いくら逆立ちしても、アメリカのベンチャー精神で作られたソフトを乗り越えることができないのは間違いないと思う。
こうしたベンチャー精神に従って、挑戦することをよしとするのがアメリカという土壌であると本書の冒頭にある以上、こうしたチャレンジを日本でいかにするのかということは、少し参考にできない。
どちらかというと、この本をもってアメリカに行くのが手っ取り早く挑戦し、成功するための方法だと言える。
だから、今の自分が、この本を読んでどうしようと考えられなかったのではないか。この話、うまく日本の土壌に翻案してこないといけないのだと思う。これを取組として考えない限りは、前には進めない。そして、このことを考えている人はいるんだろうか?と次の考えのための問として開いてくことにする。
追記
Lispという言語、やたらに括弧が多い謎の言語で、玄人っぽい、ハッカーぽいってんで、少し勉強してみようと思ってみた。
死をポケットに入れて チャールズ・ブコウスキー
ブコウスキーの小説が河出文庫でいくつか出ている。河出文庫の本が好きで、たぶん澁澤龍彦の本を書い集めているうちに、河出文庫ででているものならなんでもおもしろかろうと見るようになった。
とりわけ、河出文庫が出している海外作家の作品についてが、そのセレクトするのが、どれもこれも僕好みなのだ。
バタイユは言わずもがなで、数年前にバロウズ、ジャリ、カルヴィーノとか。いずれも気になる装丁で。近年時にありがたいと思うのはドゥルーズを文庫化していってくれているところ。
こうした作家を選び、並べられると、まったく知らないけれど、タイトルがかっこよくてついつい買ってきてしまうのである。そしてタイトルがかっこいい作家としてのブコウスキーなのである。
河出文庫では「くそったれ少年時代」とタイトルだけでなにか清々しいものが込み上げてくる。そうだ!子供になんか死んでも戻りたくない。老いさらばえながら、大人になって、ホントよかった。子供時代なんか自分にとってはどうでもいいことなんだ!と勝手にタイトルだけで妄想することができる。
そして、『死をポケットに入れて』である。
ほとんどの人たちは死に対する用意ができていない。自分たち自身の死だろうが、誰か他人の死だろうが。死に誰もがショックを受け、恐怖を覚える。まるで不意打ちだ。何だって、そんなこと絶対にありえないよ。わたしは死を左のポケットに入れて持ち歩いている、そいつを取り出して、話しかけてみる。「やあ、ベイビー、どうしている? いつわたしのもとにやってきてくれるのかな? ちゃんと心構えしておくからね」
年老いた男の日記。競馬、ラジオ、そしてマッキントッシュでこの日記を書いているというこのロックな感じ。
かっこいいじゃないか!
死と近しい場所で、この世にむかって、くそったれといい、そして、俺はまだまだこのマッキントッシュで、書いて書いて書きまくるんだと。
いくらかでも引用したくなるいいなぁというフレーズがあるが、読み終えたらもう一度、まとめよう。
河出文庫の棚から見つけた作家なので、きちんと来歴を知らないと思ってWikipediaを見た。
リンクを貼っておきます。
http://wikipedia.gwbg.ws/hgea
ブコウスキーの墓には「DON'T TRY(「やめておけ」)」と刻まれている、とな。
かっこいい。
PENTAX K-7
少し前の話になるけど、カメラを買った。
PENTAX K-7。
そういえば、中高生くらいの時に一眼レフカメラに憧れたのを思い出した。それがきっかけ。
中学生の頃に市の図書館に通っては面白そうな本を物色していた。自分では買えないような高い本でも賃りることができるのが、図書館の贅沢なところで。たまたま目に止まったキャパの写真集が気になって。
この本だけど、後に深夜特急の作者として再開することになる沢木耕太郎の解説付き。
一番、気になった写真はユダヤ人家族の写真。
もちろん、老兵が撃たれた瞬間の表紙の写真*1や、ノルマンディー上陸作成の例のぶれた写真とかも見入るものがあった。
また、土門拳の仏像の写真。
それに、最近、入江泰吉の写真集も買って見た。
これは奈良出身ということもあるけど、昔の姿がとても新鮮で。堀辰雄の大和路なんかもこの写真集の姿をしていたころの奈良のことなんだろうと思いながらみてみる。昔の風景、とりわけ昔の繁華街の写真なんかをみていると、ファッション、文化といったところもさることながら、人たちの顔つきがかわっていくことに驚異を感じて見入ってしまう。
あと、ついでにいま欲しい写真集ものっけておこう。
土方巽が田んぼに裸でつったてたりする。
こんな写真が取りたい!というほど、たいそうなことではないが、入江泰吉の奈良の写真なんかを眺めていると、こうして今の何でもない日常を写真に写すことがそれだけで、何かおもしろいものになるんでないかと考えている。
まずは使い方を覚えないといけない。結局すべてカメラ任せの撮影とならないよう、これからはカメラをもってでかけよう。